「自分と同じ」
感覚を閉じる事の弊害が
という前提条件が苦しみの発端。
小さい頃に
とても深く傷ついた事があって
それを思い出すと
今でもキュゥってなる。
子供心に
なんでそんなこと言うの?
信じられない。。
とショックを受けた。
その言葉を発したのが大好きな近しい人で
まさか自分を傷つける事を言うなんて信じられなかった。
フェイント過ぎて
無防備に受けてしまった。
そう、特にリラックスした
超無防備な時だったんだ。
その本人は至って無邪気で
悪気がないのも傷つける気もない。
それがわかるだけに
その自分の感情の処理が出来ずに
すんごい底の底の底に押し込んだ。
(その時既に自分の気持ちが
言えない人になっていて)
何があったかは置いておいて、
とにかくその出来事で
傷心の上
=女性性は尊重されない。
自分は大事にされない、
晒される、
辱められる
とインプットされた。
すんごい誤解と思い込み。。
無邪気への罪悪感
感覚を閉じていく出来事が
ここにもあった、、、。
自分と他者は違う存在だから
自分の感覚と違って当たり前。
と言うことが早くからわかっていたら
心を痛める事も
痛みを感じないように感覚を閉じる事も
なかったんだろうなと思う。
感覚を閉じる事の弊害が
大き過ぎ。
本能や野生の感が鈍ることは
健全な衣食住を失うに直結する。
だから無意識に
日本古来のものに惹かれていたのかも。
バランスを取るために。
いつか思い出せるように。
誰も悪くない。
それすらも自分で決めて来ているから。
だけど、もうちょっと
早く気付いて解放されたかったなぁ。
子供に自身の本質を理解し
個の存在として
自信に導くことは
勉強が出来るより何よりも
私にとっては
優先順位が高い事だと思えます。